「春琴抄」(谷崎潤一郎)①

嗜虐を越えて極限まで結晶化した春琴の愛

「春琴抄」(谷崎潤一郎)新潮文庫

秀でた技巧と類い希なる美貌、
そして峻烈な稽古によって、
盲目三味線師匠・春琴には
敵が多かった。
ある晩、
屋敷に忍び込んだ曲者が
熱湯を浴びせ、彼女の顔は
二目と見られぬものとなった。
彼女を崇拝する佐助は
針を眼に差し込み…。

「私にはお師匠様の
 お変りなされたお姿は見えませぬ
 今も見えておりますのは
 三十年来眼の底に沁みついた
 あのなつかしい
 お顔ばかりでござります」
「ほんとうの心を打ち明けるなら
 今の姿を外の人には見られても
 お前にだけは見られとうない
 それをようこそ察してくれました」
「そのお言葉を伺いました嬉しさは
 両眼を失うたぐらいには
 換えられませぬ」

醜い姿を佐助だけには
見られたくないという春琴の女心。
それを忖度し、両目を針で突き、
自ら失明した佐助の偽らざる心。
それらが如実に描出されている、
本作品の佳局といえる場面です。

谷崎潤一郎の傑作として知られる
本作品は、
男女の愛の究極を描いたものです。
しかし、春琴と佐助、両者とも
直接的にその意を相手に伝える場面は
一切ありません。
それどころか春琴の佐助に対する態度は
主と従、師と弟を越え、
一見嗜虐的ですらあります。

九歳のときには自分の手曳き役を
何人かの丁稚の中から佐助を指名、
十一歳で佐助を三味線の弟子とし、
十七歳で人知れず佐助を手引きし
身籠もっているのですから、
春琴が佐助を
愛の対象としていることは明白です。
いや、二十歳で独立後は
一軒家を与えられ、
事実上の夫婦として
寝起きを共にしているのです。

にもかかわらず、
「佐助と夫婦らしく見られるのを
 厭うこと甚しく
 主従の礼儀師弟の差別を厳格にして
 言葉づかいの端々に至るまで
 やかましく云い方を規定した
 またそれに悖ることがあれば
 平身低頭して詑まっても
 容易に赦さず執拗にその無礼を
 責め」
るのですから、
その愛は常人の考えるそれとは
形を異にするものです。

そこには丁稚などと
夫婦にはなれないという
大阪の高名な商家の娘としての自負や、
盲人であるがゆえの
哀れみを受けたくないという
高い自尊心があったのかも知れません。
佐助を愛する心を
自分の内部に深く押し込み、
かつそれを自分で気づけぬ彼女の姿は
気高くあると同時に
痛々しくもあります。

もしかしたら三十年間
盲いた暗闇の中で生き続けた
彼女の心情は
健常の人間では十分に
理解できないものかも知れません。
「よくも決心してくれました
嬉しゅう思うぞえ」という
彼女の一言は、
自分と同じ世界に降り立った佐助への
感謝の一念から
発したものなのでしょう。

嗜虐を越えて
春琴の愛を極限まで結晶化させた
本作品は、やはり日本文学の
比類なき高みに存在しています。

(追伸)
淡々と物語を進行させながらも
細部を完璧に描写していく表現手法、
よどみなく語りかけるような文体、
句読点を極力排した
不可思議な文章でありながら、
息をのむほど流麗で美しい日本語です。
それに浸り、身を任せるだけでも
本作品を読む楽しさがあります。

※ある漫画の頁をめくっていたら
 「トゲツン女王」という言葉を
 見つけました。軽い言葉を
 春琴に当てはめるのはどうかと
 思いながらも、
 もっとも合致する言葉のように
 感じました。

(2019.9.23)

Jonny LindnerによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「春琴抄」(谷崎潤一郎)

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